私たち「旅人」のバイブルで、誰もが憧れ、目指した旅行記「深夜特急」。
その著者、沢木耕太郎の新作ノンフィクション「天路の旅人」。
西川一三(かずみ、1918年- 2008年)を知っていますか?
戦時中、内蒙古(現、中国内モンゴル自治区)からチベット仏教の巡礼僧になりすまして中国大陸の奥深く、秘境チベットまで、日本の「密偵(スパイ)」として潜入した人です。
戦争終結後もそのまま旅を続け、チベットからインドに抜けて、アフガニスタンを目指すもカシミール紛争で断念。鎖国中のネパールからシッキムに戻り、ビルマ、インドシナに向かおうとするときに、身バレして、1950年、日本に送還されるという「稀有な旅人」です。
帰国時は、朝鮮戦争の前夜で、GHQに一年近く、「竹のカーテン」の内側の情報を提供すると同時に、自らの経験を原稿に書くのですが、それがあまりに長大過ぎて、出版するところがありませんでした。
しかし、1967年になってやっと「秘境西域八年の潜行」(芙蓉書房。その後、1990年中公文庫)が出版されることになりました。それもだいぶ端折られたものでした。
今回、その生原稿に出会った沢木耕太郎が、本人に取材し、他の資料や地図にも照らして西川の旅の全体像を明らかにしたのが本書です。
沢木は書いています。「『秘境西域八年の潜行』という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図のようなもの」として書いたのだが…。
本当に書きたかったのは「西川一三という稀有な旅人」だと。
私は、西川一三の名前と彼が戦中、密偵としてチベット潜入したことは知っていましたが、その詳しい経緯と足取りは知りませんでした。
というのは、西川のチベット行よりも40年も昔、明治30年頃に、既に大阪、堺出身の河口慧海(かわぐちえかい)が苦労の末、日本人初のチベット潜入を成し遂げていたからです。
しかも、西川が「密偵」として中国奥地を旅したことから、彼はてっきり「陸軍中野学校」のようなスパイ養成機関を出た軍国主義に染まった、屈強な軍人だと想像していたからです。
しかし、この本によって、彼はそのような屈強な軍人ではないのに、強力な「お国のため、天皇のため」という使命感や、河口慧海のような仏道修行という訳ではないのに、今よりもずーっと厳しい日中戦争の最中、すごい旅をやり遂げたことを知りました。
彼の旅の原動力は冒険家、探検家、あるいは登山家(アルピニスト)が持ち続けている「未知への憧れ」であったということを知ったのです。沢木耕太郎もそこに興味があったと思います。
西川が帰国してまもなく、彼は岩手県で美容器材の卸売りという、それまでの経験とはまったく関係のない、あるいは真逆の商売をはじめ、正月以外の364日、それに専念します。
彼は、日常生活の中に「未知」を見つけ、それにのめりこんでいく、生涯の旅を続けていたのです。
沢木耕太郎は、西川の歩いた道をたどりたいと思っていたが、コロナ禍によって、「以前よりさらに難しくなってしまった。(でも)諦めたわけではない。状況が好転したら何としても、内蒙古からインドまでの旅をしてみたいと思っている。」と…。
さあ、私たちも旅に出る時です。
その著者、沢木耕太郎の新作ノンフィクション「天路の旅人」。
西川一三(かずみ、1918年- 2008年)を知っていますか?
戦時中、内蒙古(現、中国内モンゴル自治区)からチベット仏教の巡礼僧になりすまして中国大陸の奥深く、秘境チベットまで、日本の「密偵(スパイ)」として潜入した人です。
戦争終結後もそのまま旅を続け、チベットからインドに抜けて、アフガニスタンを目指すもカシミール紛争で断念。鎖国中のネパールからシッキムに戻り、ビルマ、インドシナに向かおうとするときに、身バレして、1950年、日本に送還されるという「稀有な旅人」です。
帰国時は、朝鮮戦争の前夜で、GHQに一年近く、「竹のカーテン」の内側の情報を提供すると同時に、自らの経験を原稿に書くのですが、それがあまりに長大過ぎて、出版するところがありませんでした。
しかし、1967年になってやっと「秘境西域八年の潜行」(芙蓉書房。その後、1990年中公文庫)が出版されることになりました。それもだいぶ端折られたものでした。
今回、その生原稿に出会った沢木耕太郎が、本人に取材し、他の資料や地図にも照らして西川の旅の全体像を明らかにしたのが本書です。
沢木は書いています。「『秘境西域八年の潜行』という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図のようなもの」として書いたのだが…。
本当に書きたかったのは「西川一三という稀有な旅人」だと。
私は、西川一三の名前と彼が戦中、密偵としてチベット潜入したことは知っていましたが、その詳しい経緯と足取りは知りませんでした。
というのは、西川のチベット行よりも40年も昔、明治30年頃に、既に大阪、堺出身の河口慧海(かわぐちえかい)が苦労の末、日本人初のチベット潜入を成し遂げていたからです。
しかも、西川が「密偵」として中国奥地を旅したことから、彼はてっきり「陸軍中野学校」のようなスパイ養成機関を出た軍国主義に染まった、屈強な軍人だと想像していたからです。
しかし、この本によって、彼はそのような屈強な軍人ではないのに、強力な「お国のため、天皇のため」という使命感や、河口慧海のような仏道修行という訳ではないのに、今よりもずーっと厳しい日中戦争の最中、すごい旅をやり遂げたことを知りました。
彼の旅の原動力は冒険家、探検家、あるいは登山家(アルピニスト)が持ち続けている「未知への憧れ」であったということを知ったのです。沢木耕太郎もそこに興味があったと思います。
西川が帰国してまもなく、彼は岩手県で美容器材の卸売りという、それまでの経験とはまったく関係のない、あるいは真逆の商売をはじめ、正月以外の364日、それに専念します。
彼は、日常生活の中に「未知」を見つけ、それにのめりこんでいく、生涯の旅を続けていたのです。
沢木耕太郎は、西川の歩いた道をたどりたいと思っていたが、コロナ禍によって、「以前よりさらに難しくなってしまった。(でも)諦めたわけではない。状況が好転したら何としても、内蒙古からインドまでの旅をしてみたいと思っている。」と…。
さあ、私たちも旅に出る時です。