2024/08/15
2024/08/14
新潟県、「日本のミケランジェロ」石川雲蝶。
「日本のミケランジェロ」とたたえられる匠の名は石川雲蝶。江戸時代末期、木彫りや石彫りばかりでなく絵画もこなした。その大作が魚沼に残っています。
「へぎそば」は魚沼発祥の郷土料理で、つなぎに「ふのり」を使った蕎麦です。「へぎ」という木の器に盛られています。
2024/08/13
新潟県、守門岳(すもんだけ、1537m)
袴(はかま)岳を主峰に、青雲(あおぐも)岳、大岳との三峰からなる越後の名峰。
登山道沿いには、樹齢約300年を超えるブナの原生林が広がり、様々な野鳥が棲息し、青雲岳山頂一帯にはヒメサユリ、ニッコウキスゲ、シラネアオイなどの高山植物も見られます。 また眼下には、越後平野が広がり、その奥に佐渡島、背後にそびえ立つ浅草岳・越後三山といった名峰の眺望が素晴らしい…のですが、この日は展望なし。
2024/08/12
富山県、金剛堂山(1637 m)
山の日の連休からお盆にかけて、上越・会津県境の山々を登る計画でしたが、東北地方に台風が直撃…とのことで、出発を一日延ばすことにしましたが、北陸方面は影響が少ないとわかり、8/11午後から出発し、同日は富山県砺波に泊まって、8/12金剛堂山に登ったあと、新潟県長岡に泊まることにしました。
金剛堂山は、昨年、登りに行きましたが、登り始めて間もなく、雷雨に見舞われたので、撤退していました。
砺波から、庄川沿いに利賀(とが)村を目指します。利賀村は蕎麦を通じて、ネパールのツクチェ村と姉妹村になっています。ツクチェ村はダウラギリの麓。チベットとの交易の村で、タカリ族の村。河口慧海がチベット潜入前に越冬し、チベット語や習俗を身に付けた村として知られています。
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アブの大群に襲われました |
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所々、えぐれています |
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歩きやすい登山道 |
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山頂 |
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ブナの大木が見事 |
2024/07/26
長野県、木曽駒ヶ岳(2956m)
2024/07/25
2024/07/18
大阪府、二上山(イワタバコを求めて)
2024/07/15
2024/07/03
大阪府、生駒山系、星田園地
2024/06/15
パキスタン、カラコルムで平岡竜石氏遭難
パキスタン、カラコルム山脈のスパンティーク峰(7027m)に登っていた平岡竜石さんと田口篤さんが遭難。平岡さんの遺体は6月15日発見、収容されましたが、田口さんは行方不明で、捜索は一旦打ち切られました。
平岡さんの収容風景
平岡竜石さんは、2003年、チョラツェで逝った榊󠄀原さんと同じ、チーム84のメンバーでした。
平岡竜石さんは、2003年、チョラツェで逝った榊󠄀原さんと同じ、チーム84のメンバーでした。
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1995年Team84ダウラギリ隊メンバー(このうち4名が海外の山で逝った) |
1995年、チーム84ダウラギリ隊の隊長が登頂後7500m付近で行方不明になり、別隊で登頂した林が捜索に協力して以来の知り合いでした。
その事故でダウラギリの登頂を逃した、平岡さんは1998年、榊原と二人で、再度、ダウラギリに挑みます。東壁にトライしました。しかし、天候が悪く、北東稜に転進しましたが、こちらも天候が悪く、北東稜からの登頂も断念しました。北東稜のコルに設営されたC1は2mも降雪の下になっていたとか…。ほうほうの体で下山してきた二人は、ジョムソン街道をトレッキングしていた私達と合流して、ポカラまで戻りました。
2001年、9.11事件の直後、私達はネパールのランタンリルンに向かいました。この登山に平岡さんも参加しました。残念ながら、体調不良で登頂はなりませんでした。
2010年秋、平岡さんは三度、ダウラギリに向かいます。しかし、同時期に入山していた日本プロガイド隊(田辺治隊長)4名が雪崩により遭難。平岡さんも登山を中止しました。三度、ダウラギリに挑戦しましたが、ダウラギリの女神から見放された平岡さんでした。
今回、事故のあったスパンティークは、1955年ドイツ隊により初登されています。そのあとも、何隊かに登頂されていますが、1992年に神奈川県連隊が「不揃いのクライマー16名全員登頂」して話題になりました。隊長の広島三朗(みつお)さんは、カラコルムに何度も遠征し、K2にも登頂して、パキスタンに造詣深く「地球の歩き方パキスタン編」も書いておられました。その時の報告書を引っ張り出してきて、見てみると、1994年11月19日の日付で、広島さんにサインを頂いていました。私も、スパンティークに登ろうと、
報告会に出かけたのだと思います。その広島さんは、1997年カラコルムのスキルブルムで亡くなっています。
それまでの登山隊は、ほとんどが比較的登りやすい南東稜からのルートですが、2009年ギリギリボーイズの3人が、北面のゴールデンピラーという円柱状の岩壁を第3登しています。「ゴールデンピラー」、私もフンザから見ましたが、朝日に照らされ、まさに黄金色に美しく輝く岩壁は印象的でした。
平岡さんの、今回の登山は、ノーマルな南東稜ルートのようです。お客さんと一緒に登るのでしたら、高所ポーターを使って、フィックスを張って安全を期するのでしょうが、「全員登頂」できるくらい易しい(?)ルートで、経験のあるパートナーとロープを結び合ってアルパインスタイルで登っていたようで、どちらかが誤ってスリップし、相手も引きずられ、ふたりとも滑落してしまったのではないでしょうか?
スパンティーク峰で、遭難した平岡竜石さんの遺体は6月15日に収用されましたが、もう一人の田口さんは行方不明のままで、本日、捜索が打ち切られました。
報告会に出かけたのだと思います。その広島さんは、1997年カラコルムのスキルブルムで亡くなっています。
それまでの登山隊は、ほとんどが比較的登りやすい南東稜からのルートですが、2009年ギリギリボーイズの3人が、北面のゴールデンピラーという円柱状の岩壁を第3登しています。「ゴールデンピラー」、私もフンザから見ましたが、朝日に照らされ、まさに黄金色に美しく輝く岩壁は印象的でした。
平岡さんの、今回の登山は、ノーマルな南東稜ルートのようです。お客さんと一緒に登るのでしたら、高所ポーターを使って、フィックスを張って安全を期するのでしょうが、「全員登頂」できるくらい易しい(?)ルートで、経験のあるパートナーとロープを結び合ってアルパインスタイルで登っていたようで、どちらかが誤ってスリップし、相手も引きずられ、ふたりとも滑落してしまったのではないでしょうか?
スパンティーク峰で、遭難した平岡竜石さんの遺体は6月15日に収用されましたが、もう一人の田口さんは行方不明のままで、本日、捜索が打ち切られました。
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